- 196x年
- 東京浅草に生まれる。幼少期は東京晴海で育つ。後で知ったのだが、この頃僕を育ててくれていたのは継母だった。やたら、厳しい事と遠く感じる事を記憶している。恨んでたりは全くしてないが、親子の愛情みたいものが理解できたのは40に近くなった二人目の子供が生まれる頃だった。なので、愛情を知らない恋愛は苦労した記憶がある。今は子育てが幸せに感じる毎日になれた・・・・・話は小学校の低学年の僕に戻って、おの頃の僕はサスケに憧れて剣道?を習い番長にくっついて、どちらかと言えばいじめっ子。小学校3年生までに二回の暴力事件!?(口より先に手が・・・みたいな子だった。)とても反省し、暴力反対派になった後、四年生で北千住に転校。晴海では隣町の月島にもんじゃを食べに日参してたが、北千住では同じような食べ物(全体的に少し粘度が高く具も多い!?)をボッタと称していた。もちろんハマってTという店に日参。転校後は、お決まりのいじめられっ子のコースを進む。初デートは小学校6年生。五つ年上の兄のすすめで兄の背広着て銀座に映画を観に行った。映画はもちろんアドバイスにしたがって”10テン”という大人のエロ映画だった・・・・。
- 中学校でも勿論、いじめられっ子の道を進む。かなり、過激なイジメのある学校だったので、先に旅立ってしまった同級生もいて新聞にも載ったが、旅立った理由は親の離婚問題みたいなトンチンカンな事が書いてあった。遺書ぐらい書いていくべきでは?と冷静に思ったのを記憶している。僕も旅立とうかと思ったこともあったが、損得勘定の結果、まだ人生半分以下なので損と判断し思い留まった。この時期に僕の性格を180度明るい方へ変化させてくれる親友に出会った。彼と彼の母のお陰で、根暗ないじめられっ子は、陽気ないじめられっ子に進化した。親友の彼とはもう何十年も会っていないが、今でも親友だという想いは変わっていない。去年、偶然ネットで僕を見つけた彼からメールが来た!驚きはしなかったが、嬉しかった!が、まだ会っていない。
- 高校デビュー高校生になる頃、父親が会社を辞めた。どちらかというと裕福な家庭だったが、一気に苦しい生活に・・・といっても高校生の僕には家が一軒家から小さなアパートに変わったぐらいの変化とお小遣いがなくなったぐらいなものだったが・・。お小遣い稼ぎで学校帰りにアルバイト。帰宅時間が遅いと口論になり、『ならば、もう帰って来ない!』と翌日荷物をまとめて家出。今では顔を出す事もあるが、その家出の日依頼ずっと独立生計が続いている。16歳で自主元服出兵みたいな感じだ。高校では友達はいたが、マージャンや音楽の毎日には馴染まず、空手とバイトとバイクに明け暮れた毎日だった。もちろん、お約束の暴走族にも入ったが、スピードは好き!集団暴走楽しい!けど、ケンカやしきたり嫌いなのでハマらなかった。毎日、バイトの前後の時間で水元公園にタイムアタックに行く日が続いた。英語と美術を専攻したお陰でなんとか卒業できた。暴走族・英語・美術・・・僕にとってはどれも大事な自己表現の方法だったと今気づいた。
- 19xx年
- 高校卒業後商社に就職学生時代に飲食のバイトをやっていて、飲食関係に進むか迷ったが、自動車免許取得のため、建築関係でバイト。半年後に自動車免許取得の目的達成。車を運転する仕事に興味が湧き小さな商社に就職。ここで、営業の仕事を覚える傍ら化粧品の販売成績向上の為シュウ・ウエムラのメイクスクールに通いメイクを覚える。その後、当然メイクに興味を持ち、営業職の傍ら舞台メイクなどを担当するようになる。
- 20歳で独立弾みで営業職から独立。小さな事務所を自分のアパートの片隅に構える。ある時、お世話になっていた社長に『これからどうする?』と聞かれ『出来れば独立したい』と言ったら『うちとキョウゴウするつもりなのか?』と聞かれ『競合』という日本語を知らず『共合?』仲良くやる!みたいな意味に勝手に解釈して『はい!そのつもりです!』と答え『では、好きにしろ』と言われ・・・・折角なので自営業の道を進んでみる事にした。営業先を紹介されて行ってみると、メーカー直販で問屋価格の仕切値で仕入れをしている会社だった。挨拶の後『うちは無理でしょ。みんな諦める。メーカー直だからねー。でも、メーカーの直販よりお得なら話に乗るよ。』と言われた。諦める訳もなく創意工夫!卸会社説得!で、なんとか勝負できる回答を持って行ったら取引をする約束をしてくれた!なんとかなるじゃん!そう思ってそこそこ仕事、自由に遊び。大儲けはしなかったけど、充実した毎日だった。二輪のレースにハマッたのもこの頃。営業車にバイクを積んであちこちのサーキットに行っていた。楽しかったけど、意外と安全運転な自分がいてレースではあまりいい成績ではなかった。親友の強い勧めで、まるまる三日間もやる成功のセミナーみたいなものに参加した。参加して良かったと思うが、物足らなかった。やはり疑似体験の世界は・・・みたいな感じだった記憶がある。縁があってエステ関係の勉強をしたのはこの頃。学生時代化学は好きだったので電気生理学はとても興味を持った。この後一通り、自分の目標も達成したというか、だれて来た独立5年後に美容室に管理職としてヘッドハントされ、人事と教育を担当。海外のヴィダルサッスーンで美容技術を磨く。同時にヘアメイクとしてタレントのヘア担当。TVCMや一般誌でも活躍。ロンドンやLAでアートを学ぶ。バブル期であった。毎日ブイブイ遊んだ。結婚はしていたが家にはあまり帰らなかった。行動心理学に興味が湧いたのもこの頃。
- 19xx年
- 30歳で転職バブル崩壊後、流石に経営が苦しい美容室。生き残りの為にリストラが必要に。人事も担当だったので、全て任せてもらう約束でリストラは僕が担当。僕自身の退職と直属の部下と実力たっぷりの後輩に順次退職指示。こっそり引継ぎも完了し、僕は退職翌日、成田からイタリアへ!なぜなら、社長に自分が辞めるとは言ってなかったので、電話で文句言われても困るので国外逃亡!イタリア周遊の旅に。初イタリアはローマ。歓迎の挨拶はスリからだった。到着翌日に財布をすられた!パスポートは無事だった。イタリアで新しい人生を送ろうと最後の訪問地ミラノで、駅前の美容室に押しかけてなんとか就職の約束まで漕ぎ着けた。イタリアで美容師として一旗上げて凱旋帰国する夢を描いて、荷物をまとめる為に一旦帰国。その帰国の飛行機の中で突然フォトグラファーになる決心をし、帰国後に写真虎の穴A社にアシスタントとして入社。猛烈に忙しく5年分のアシスタントの仕事量を1年で消化した。忙しいのもあって、相変わらず家には帰っていない。きっちり一年後にフリーランスのフォトグラファーとして独立。独立直後に生涯の仕事の伴侶を得た。彼は今、美容事業部のトップ。
- 200x年
- 神宮前に事務所開設どんな仕事でも請けて、何とか食い繋いでフリーランス二年目が終わるころ突然想いついて神宮前にアパートを借りて事務所に。TV雑誌のタレント撮影とビューティーを主に活動する。.このころ長女が生まれた。妻のガマンというか忍耐力に負けた。
- 200x年
- 神宮前にスタジオ開設NYに3週間くらい遊びにというか、売り込みに行くつもりだったが、フライト前日が9.11事件の日になった。スタジオで撮影してたら、アシスタントの人が、『アメリカで飛行機落ちたみたいですよ。』・・・『アメリカは広いから飛行機くらい落ちるんじゃない?』・・・・しばらくして『戦争みたいですよ』・・?・・・『まじっすか?』とTVを見に行くと・・・・・あら大変!当然、翌日NYなんぞに行ける飛行機などなく、仕方なく東京で3週間のバカンス。突然引越しでもしようかと想いつき、そしたら、特別な物件を見つけてしまった!少し悩んだが、友人の後押しもあって勇気を持って移転!移転先がメゾネットタイプなので事務所移転とともに二階に小さなスタジオを併設。その後、仕事も順調に進んだが、ふと想った。 『もっと写真が上手くなりたい!』そして試行錯誤の末、『人間力アップ=自分自身の成長』という自分なりの結論に辿り着き精神世界の学びと潜在能力開発のトレーニングを始める。沖縄の聖地でのファッションの撮影時に自分の中で何かが変わり、その後に著名な氣功師との出会いや多くの師との出会いで氣功・スピリチュアリティー・真言密教・Reiki・直伝霊氣・西洋神秘学について学ぶ。次女が産まれ、長男が生まれた。学びと成長の師は目の前の彼等であった。そして僕を磨いてくれるのは会社のスタッフだった。
- 2009年
- 南青山に事務所移転パワーラインの変化、社会情勢、建物の老朽化etc色々な理由は後からつくが・・・・・・・・・突然想いついて事務所を神宮前から南青山に移転。引越しを想いついてから二ヵ月後の引越しだったが、今の事務所はフルリフォーム済みのステキな物件なのに二ヶ月も入居者が決まらなかったらしい。きっと僕を待ってたのだろうと内見して即決定。いつもの事ながら、突然想いついて変化があった後はもの凄いスピードで新しい展開となる。三女も生まれ四人の子持ちになった。
- 2010年
- 小顔になる小顔活性法の原型を開発。
- 亀戸に 癒され気持ちよく綺麗になるをテーマにした美容室アンクをプロデュース。
- 2011年
- 大変革の一年
- 整理整頓大発展の一年に。
- 20xx年
- 世界中を飛び周る世界の聖地の紹介と保護活動・平和と幸せ、明るい未来創りのメッセージ発信のため、世界中を駆け巡る。TV番組のプロデュースなどを手がけ多くのメッセージを発信する。天界と人間界の橋渡しを行う。癒す人づくり、癒される空間づくりを積極的に行う。世界が平和でありますように!全ての人が幸せに気づきますように!



